STAR STORY: 2007年12月アーカイブ

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☆ファッションデザイナーとしても成功したい

歌手活動を始めて一番気分が悪かったのは「お前はどうしてライブをしないんだ?」と言われた時だ。
本当に一生懸命歌の練習をしたから、僕はライブをする自信はあった。
でも最初だし新人だから口パクでしか舞台に立たせてもらえなかった。

ずっと残念な気持ちでいたが、ついに6月末初めてMBCTV<ミュージックキャンプ>でライブをした。
みんなが「お前ダンスだけだと思ってたけど歌も上手いんだな」と誉めてくれ一方では驚きもした。
今までで、初めてライブをして誉められた時ほど嬉しいことはないと思う。

そしてこれからもライブの上手い歌手になることが最も大きな願いだ。

今やっと僕はデビューして3ヶ月だ。
<悪い男>という曲を聴いてもらったが、今の後続曲の<さよならの代わりに>は、ファンのみなさんにもっといい反応を得ているようだ。
このまま年末まで一生懸命活動するつもりだ。

そして最近は演技という新しい分野にも挑戦した。
シットコム(単発ミニドラマ)で(浮気モノ)の役をもらったが、演技も本当に面白い。
皆さんには歌も演技もできる万能な姿をお見せしたいし、後にはファッションデザイナーとしても成功したい。
今最も大きな夢は、10年後にかっこよく成功した歌手としてそこに立っていることで、その頃になったら僕が好きなデザインの勉強も始めるつもりだ。
そして20年後はデザイナーとしても認めてもらいたい。

(デビュー 3 ヶ月目のヒヨコ歌手のスターストーリーを読んでくださったファンの皆さんに心から感謝致します。)
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☆2年間の練習 ついにアルバムが

練習しながら僕のアルバムが出る8月末を指折り数えた。
しかし8月になってすぐまた予定が変わってしまった。
同じ所属のパクチユンさんのアルバムを出さなければならなかった。
僕のアルバム制作は再び11月に延期された。
そうして僕の不安感はどんどん大きくなっていった。
チユンさんのアルバム制作を終えるとまたチニョンさんはアメリカに発った。
僕は不安の中で掴めるものがなくてだからもっとただ歌の練習にすがった。
「2年間ずっと練習だけして、アルバムを出すこともできないのではないか」そんな考えも浮かんで、「ダンス歌手なのに年ばかり食ってしまうんじゃないか・・・」と不安になったりもした。

今年2月頃韓国へ帰ってきたチニョンさんは「今度は本当にアルバムを出そう」と言い、約1ヶ月でレコーディングを全て終わらせた。
すでに曲は全て作ってある状況だったからレコーディング作業はすぐに終えることができたのだ。

ついに4月28日<ナップンナムジャ>(悪い男)の初放送デビュー舞台。
今この舞台で僕が練習してきたダンス、歌全てを見せなければと思ったが、思ったほどは上手くいかなかった。
特別失敗した部分はなかったけど緊張して、思ったように体を動かすことができなかった。
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☆ 孤独と戦いながら

母の入院費まで責任を持ったパクチニョン   1人で練習をするのにはうんざりした。それで僕は練習所に通う電車やバスの中で狂ったように練習した。

音楽を大きくして一緒に歌いながら、歌に合わせて振りをつくり、電車やバスの中でためらうことなく踊った。

狂った少年に見えたろう。

チニョン氏がアメリカにプロデューサーになるために旅立ってから、

『ひょっとしてこのまま歌手になれないんじゃないだろうか』と不吉な思いもよぎったが、 孤独と戦いながら、1人で一生懸命に練習した。そしてチニョン氏が昨年3月にアメリカでのプロデューサー活動を終えて帰ってきた。

それで僕のレコーディングをすぐに始めると思ったのに、チニョン氏は『私のCDを先に出す。良い歌ができた』と言った。

そのため僕のCDは 8 月に延びた。僕はチニョン氏の『僕には彼女がいるのに』の振り付けを作った。

全部僕が作ったわけではないが、かなり僕の振り付けが入っている。

そして僕はチニョン氏のバックダンサーとして活動した。

舞台経験を積むには良い機会だったが チニョン氏と毎日一緒に動きながら練習するのがとても大変だった。

チニョン氏がコーディネーターのお姉さんやマネージャーさんと話しをしたり、休んだりする時間にも僕は休む暇もなく 一生懸命練習した。

チニョン氏が合図したら歌を歌わなければならなかったし、1日に同じ歌を 100 回づつ繰り返し歌った。

そんな時、チニョン氏に『また音が外れてる』とゲンコツをされた。

ゲンコツなんて何でもないようでも、同じ場所だとかなり痛い。

パクチニョン氏のバックダンサーをしながら僕のアルバムに入っている『 babybaby 』と言う曲だけでも 100 回は歌ったと思う。

他の人が寝ている車の中でも僕はチニョン氏の指示に合わせて終わりもなく歌を歌った。
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☆孤独な練習場の代わりは、地下鉄やバス

このようにたくさんの人々の助けもむなしく、母は昏睡状態に陥り、そしてあの世へ行った。

母は最後に言葉を残した。
「妹の面倒をちゃんと看るのよ」と言った。
僕は母に「妹の面倒はちゃんを看る」と約束した。
そして心の中で「一生懸命やって必ず最高になる」という約束もした。

今も母を思い出すと恨めしい気持ちになる。
あとほんの少しだけ待っていてくれたら僕が本当にちゃんとやっているという姿を見せることができたのに・・・
家族に本当にちゃんとできたのに、そのようにできなかった事を考えると胸が痛い。
母をあの世へ送ってから僕はより一層熱心に練習に集中した。

チニョンさんはひとつひとつ直接教えてくれるのではなく、ダンスの方法を教えてくれた。
僕等の事務所では振付けのための「ソル」12動作、ステップ9動作を盛り込んだテープを製作して、僕はそのテープを見ながらうんざりするほど練習した。

チニョンさんが忙しくない時は日曜日ごとに練習室へ来て僕のダンスを指導して下さった。
しかし上手だという言葉は一言も言わなかった。
最近は「カッコイイ、上手いよ。」とよく言ってくれるのだが、その時は毎日「どうしたらお前みたいなヤツにダンスができるんだっ!到底無理そうだな」とけなした。
それがチニョンさんの教育方式だった。

チニョンさんがアメリカでのアルバム製作作業のため渡米し僕が教えてもらえない時は、孤独との戦いを強いられた。
練習室で一人遅くまで残って振付けを組み立てて練習したが、この時は本当に寂しくて憂鬱だった。

それで僕が考えた方法は、地下鉄やバスの中でダンスや歌の練習をする事だった。
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☆母の入院費まで責任を持ってくれたチニョンさん

オーディションテープを送った後、チニョンさんから連絡が来た。
「アルバムを出してみよう」と、僕をチニョンさんの弟子に入れてくれた。
僕は本当に嬉しくて、より一層一生懸命ダンスと歌の練習に励んだ。

このように僕が喜びに浸って歌手の夢を育てている間、母の容態はどんどん悪化していた。
ブラジルへふらりと発った父は何ヶ月か後そこにも適応できないまま帰ってきた。
父の代わりに家長の役割をしていた母の健康は急激に悪化していた。
僕は正直、母は僕が小さい頃からずっと体が悪かったので、当時はそんなに深刻な状況だったなんて思ってもみなかった。

父は韓国へ帰ってきてからも地方を転々としていて母の面倒を看る人も居なかった。
僕もやはり「僕一人でもちゃんと生きていかなきゃ」と思い、母の面倒をよく看てあげられなかった。

僕はチニョンさんに母の状況について全部話した。そうしたらチニョンさんは「俺がお母さんを入院させて、入院費用も出すから
心配するな」と、僕を慰めてくれた。
本当にありがたい方だ。

この後母は入院した。しかしすでに遅かった。
母が入院した時にはすでに炎症がひどく、体中が化膿していた。
病院からも、そのまま退院したほうがいいと言われた。

母は再び家に帰って来た。
その当時を思い出すと、僕は本当に恨めしくて仕方がない。

母の容態は日を追うごとに悪くなり、また入院した。
母が入院した時、チニョンさんのお父さんとチニョンさんの奥さんも来てくれて、母のそばに居てくださった。
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☆パクチニョンさんとの運命的な出逢い...

2000年。僕の一生のうち最も大きな二つの出来事が起きた。
僕を歌手へと導いてくれたチニョンさんと出逢ったことと、愛する母がこの世から旅立ったことだった。

まずチニョンさんとの出逢いについて話そうと思う。
僕は高校3年の時、ダンスグループに入った。
先輩達と一緒に生活して、食事も皿洗いもしながら公演し、当時'流行っていた'ソウルのイテウォンと弘益大の前の
クラブでも踊った。

当時、家庭の事情がとても悪かった。
商売をしていた父は失敗を繰り返して、家族に"何とかなればまた帰ってくる"と手紙一枚残してブラジルへ行って
しまった。

それで糖尿病を患っていた母が父の代わりに生計を引き継がなければならなかった。
僕はあんなに悪い体で商売をする母が理解できなかった。
当時の僕は本当に幼くて深い考えがなかったように思う。

父と母に不満を抱きながらダンスをしていたからより一層のめり込んだ。
そうこうしていたある日、マネージャについて、ある古びた事務所に行った。
ところがそこに、チニョンさんが歩いて来るではないか。
そこはチニョンさんのJYPエンターテイメント事務所だったのだ。

チニョンさんは僕を見て「何をしてる人なんですか?」と聞いてきた。
僕は「ダンスを踊っています。」と答えると、チニョンさんは「オーディションが受けられるように、ビデオテープを送ってもらえますか?」と言った。

「わぁ、godやパクチユンを育てたプロデューサーパクチニョンが僕を歌手にしてくれるのかな?」そう思った瞬間、あまりに嬉しくて僕はすぐに家に帰りオーディション用のテープをチニョンさんに送った。
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☆アンヤン芸術高校に合格して...

演技について何も知らなかった僕は、アンヤン芸術高校の入験を目前に控え、本屋へ行き関連書を全部買って読んだ。
演技以外の特技も見せなければいけなかったのだが、ダンスに関連することを探し、パントマイムを準備した。
体で表現する事には自信があった。

周囲の人たちは「何が演技だ」と反対したが、僕は一生懸命やって、堂々と合格した。

ところが面白そうに見えた演技が、学校の授業として勉強するとなると、僕には合わなかった。
なので1年の時は、演技は適当にして、その代わりダンスを先輩達と一緒にずっと練習した。

ダンスの実力が学校に知られ、各種特技舞台に代表で出ることになり、こんな僕にも女子の視線が集まった。
朝学校へ行って自分のロッカーを開けると誰が入れたのかわからないプレゼントがたくさん入っていた。
牛乳、パン、花、手紙などだった。

最近、時々「あの時プレゼントをくれたのが誰だったのか探してみるべきだった」と後悔するけど、当時はダンスに忙しくて、女の子に気を使っている暇がなかった。

1年の時は演技にも適応しようと努力したけど、2年の始めにはもうそれ以上我慢できないほど演技の授業がイヤになっていた。
だから毎日のように遅刻もし、朝礼の時間だけは席にいるけど演技実技の時間には先生に見つからないように授業をサボった。

そうやってダンスだけにハマってしまい、ついには僕は学校の先輩に目を付けられてしまった。
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☆悪い事はしないという父との誓い

ダンスを習うため、仕方なく不良の先輩達と付き合ったが、父と約束した。
絶対タバコは吸わない、悪い事はしない、という事だ。
タバコを吸わないという約束は今でも守っている。

僕達ダンスチームは懸命に練習した。
実力を確かめてみたくて、ソウルのチャムシルにあるロッテワールドで開かれた全国アマチュアダンスコンクールに出た。
何年度だったか正確には覚えていないが、コメディアンのピョインボンさんが司会だった。
僕達のダンスチームの名前は「チャレンジャー」。
僕は4人の先輩と出場した。背が高いので、センターで踊った。
しかし賞は取れなかった。

後に歌手になってからインボンさんに聞いたのだか、その大会には歌手のカンタ【現在韓国で有名な歌手】さんも出ていたそうだ。

中2の時は、ラグビーにも関心があった。
ラグビー部の先輩の姿が格好良く見えて、隣の学校のラグビー部の練習に参加したのだが、ダンスと部活と両方をすることはできなと思い、ダンスを選んだ。

そして中学3年になり、進路の選択でとても悩んだ。
友達はさほど悩まずに普通の高校に進学したが、僕はダンスの勉強ができる学校を探した。
そして決めたのが芸術高校だった。

僕は演技学校に通わずに、ただ家でドラマを見ながらセリフをメモし、それを覚えたりしながら独りで練習した。
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鬱病と自殺衝動

 

ダンスに目覚めて中学校に入学した。

スンムン中学校だったが、当時の僕は誰がみても悪かった。  

ダンスを習うために悪い先輩達と付き合った。

当時 ダンスグループと不良グループは同一であった。

僕はその先輩達にお金や服などをとられながらもダンスのために くっついて歩いた。

皿洗いや清掃で得たお金は、すべて先輩達の煙草代やビール代に消えていた。

ダンスの練習の場所にちょうどいい場所がなくて弘益大付近の公園で先輩達と一緒に練習していて 不良グループとの喧嘩で警察につかまったこともあったし、周囲では不良学生だと言われた。

毎日、父には図書館へ行くと嘘をついて、ダンスの練習をしたので勉強おろそかにするしかなかった。

そして僕の成績はどんどん下がった。中学に入って最初のテストは平均 45 点だった。

問題を解かないで、ただ勘で答えても、そのくらいの点はとれた。

しかしダンスで疲れていた僕は 初めから問題を解かないで眠っていた。

僕も正直こんな成績でショックだった。

父は僕を息子扱いしなかった。

僕に家を出ろといい、見ようともしなかった。

もしも父が、僕を殴ったり、ひどい扱いをしたら、僕はグレていたかもしれないが僕は父のこんな姿を見ながら色々なことを考えた。

家族の誰とも話しをしなくなり、鬱病になり自殺衝動を感じたこともある。

そんな風に1人で心を病みながら悩み、成績を上げなければならないと思って、勉強にしがみついて成績を回復させることができた。

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☆元々内向的だった僕の性格

子供の頃も僕は今のように内向的で無口だった。
今も人と親しくなるにはかなり時間がかかる。
でも一度仲良くなってしまえば 「こんなによく話すんだぁ」と驚くほど、よく話す。

小学校時代、勉強もそんなにできなくて、一日中言葉もなく過ごした。
だから当然僕の事を好きな女の子もいなかった。
クラスにいるのかいないのかもわからないくらいだった。
少し目立つところと言えば、ただ背が高かったことくらい。
僕はいつも後ろから3,4番目くらいの背丈だった。

静かに座っていた僕が、ある日コトを起こした。

小学校6年生の時に行った修学旅行のクラス対抗特技自慢の時間だった。
僕達のクラスの番がだんだん近づいてきたが誰も出て行こうとする人がいなかった。
ずっと様子を見ていた僕はもどかしくなり、自分が出て行こうとした。

でもクラスの友達の反応はとんでもなく悪かった。
「なんであいつが出るんだよ]」と,僕をそしる声があちこちから聞こえた。
僕は負けん気が出て、、、とうとう僕達のクラスの番になった。
僕は舞台に立った。みんな僕に集中した。
そして音楽が流れてきた。
僕は「必ず何か見せてやるんだ!」と誓い、テレビや道端で見た踊りを真似て、がむしゃらに踊った。

僕の舞台が終わるやいなや、みんなの盛大な拍手が聞こえた。
その瞬間、初めて僕は押さえきれないほどの感激を覚えた。
その時ふと頭をよぎった。

「そうだ踊りだ」
 
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☆僕が子供の頃

今でも僕が歌手であるという事が不思議でならない。
たまにCDを整理していて自分のCDを発見すると、色々な想いで一杯になる。

僕が歌手になろうという夢を抱きながらソテジワアイドル、デュースの歌や踊りを真似て練習していたように、今どこかで僕の歌を聴いたり踊りを
同じように踊りながら歌手になる夢を育てている人がいるんだという事が、本当に幸せに感じられてならない。

僕は小さい時ソウル弘益大の前に住んでいた。お母さんはおととし亡くなって、今は父と妹と三人で一緒に暮している。
三つ年下の妹は(僕は82年生まれで、本名はチョンジフンという)もともと愛想のない性格で僕と妹はそんなに仲良くない。
二人とも口数の少ないほうだから、お互い1日に一言二言、言葉を交わすか交わさないかだ。

子供のとき僕は、誰にも知られないように家を出る事が好きだったようだ。
記憶に残っている、あるとんでもない事件。4歳の時の家出事件。
お母さんとお父さんは共働きから帰ると、僕は家にいなかった。
それで捜索願を出して必死であちこち探し回ったけど僕は見つからなかった。

そうして一日が過ぎて電話が鳴った。
江華島で僕を発見したという電話だった。
僕の家の前にはバスの停留所があったのだが、どうやらそこからバスに乗って行ったらしい。
江華島では僕の腕に付いていた腕輪の連絡先を見て家に電話してくれた。
はっきりとした記憶ではないが、どこかのおばさんがバスに乗った僕の面倒をみてくれた、ということだけは覚えている。

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