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☆ファッションデザイナーとしても成功したい
歌手活動を始めて一番気分が悪かったのは「お前はどうしてライブをしないんだ?」と言われた時だ。
本当に一生懸命歌の練習をしたから、僕はライブをする自信はあった。
でも最初だし新人だから口パクでしか舞台に立たせてもらえなかった。
ずっと残念な気持ちでいたが、ついに6月末初めてMBCTV<ミュージックキャンプ>でライブをした。
みんなが「お前ダンスだけだと思ってたけど歌も上手いんだな」と誉めてくれ一方では驚きもした。
今までで、初めてライブをして誉められた時ほど嬉しいことはないと思う。
そしてこれからもライブの上手い歌手になることが最も大きな願いだ。
今やっと僕はデビューして3ヶ月だ。
<悪い男>という曲を聴いてもらったが、今の後続曲の<さよならの代わりに>は、ファンのみなさんにもっといい反応を得ているようだ。
このまま年末まで一生懸命活動するつもりだ。
そして最近は演技という新しい分野にも挑戦した。
シットコム(単発ミニドラマ)で(浮気モノ)の役をもらったが、演技も本当に面白い。
皆さんには歌も演技もできる万能な姿をお見せしたいし、後にはファッションデザイナーとしても成功したい。
今最も大きな夢は、10年後にかっこよく成功した歌手としてそこに立っていることで、その頃になったら僕が好きなデザインの勉強も始めるつもりだ。
そして20年後はデザイナーとしても認めてもらいたい。
(デビュー 3 ヶ月目のヒヨコ歌手のスターストーリーを読んでくださったファンの皆さんに心から感謝致します。)
歌手活動を始めて一番気分が悪かったのは「お前はどうしてライブをしないんだ?」と言われた時だ。
本当に一生懸命歌の練習をしたから、僕はライブをする自信はあった。
でも最初だし新人だから口パクでしか舞台に立たせてもらえなかった。
ずっと残念な気持ちでいたが、ついに6月末初めてMBCTV<ミュージックキャンプ>でライブをした。
みんなが「お前ダンスだけだと思ってたけど歌も上手いんだな」と誉めてくれ一方では驚きもした。
今までで、初めてライブをして誉められた時ほど嬉しいことはないと思う。
そしてこれからもライブの上手い歌手になることが最も大きな願いだ。
今やっと僕はデビューして3ヶ月だ。
<悪い男>という曲を聴いてもらったが、今の後続曲の<さよならの代わりに>は、ファンのみなさんにもっといい反応を得ているようだ。
このまま年末まで一生懸命活動するつもりだ。
そして最近は演技という新しい分野にも挑戦した。
シットコム(単発ミニドラマ)で(浮気モノ)の役をもらったが、演技も本当に面白い。
皆さんには歌も演技もできる万能な姿をお見せしたいし、後にはファッションデザイナーとしても成功したい。
今最も大きな夢は、10年後にかっこよく成功した歌手としてそこに立っていることで、その頃になったら僕が好きなデザインの勉強も始めるつもりだ。
そして20年後はデザイナーとしても認めてもらいたい。
(デビュー 3 ヶ月目のヒヨコ歌手のスターストーリーを読んでくださったファンの皆さんに心から感謝致します。)
☆2年間の練習 ついにアルバムが
練習しながら僕のアルバムが出る8月末を指折り数えた。
しかし8月になってすぐまた予定が変わってしまった。
同じ所属のパクチユンさんのアルバムを出さなければならなかった。
僕のアルバム制作は再び11月に延期された。
そうして僕の不安感はどんどん大きくなっていった。
チユンさんのアルバム制作を終えるとまたチニョンさんはアメリカに発った。
僕は不安の中で掴めるものがなくてだからもっとただ歌の練習にすがった。
「2年間ずっと練習だけして、アルバムを出すこともできないのではないか」そんな考えも浮かんで、「ダンス歌手なのに年ばかり食ってしまうんじゃないか・・・」と不安になったりもした。
今年2月頃韓国へ帰ってきたチニョンさんは「今度は本当にアルバムを出そう」と言い、約1ヶ月でレコーディングを全て終わらせた。
すでに曲は全て作ってある状況だったからレコーディング作業はすぐに終えることができたのだ。
ついに4月28日<ナップンナムジャ>(悪い男)の初放送デビュー舞台。
今この舞台で僕が練習してきたダンス、歌全てを見せなければと思ったが、思ったほどは上手くいかなかった。
特別失敗した部分はなかったけど緊張して、思ったように体を動かすことができなかった。
練習しながら僕のアルバムが出る8月末を指折り数えた。
しかし8月になってすぐまた予定が変わってしまった。
同じ所属のパクチユンさんのアルバムを出さなければならなかった。
僕のアルバム制作は再び11月に延期された。
そうして僕の不安感はどんどん大きくなっていった。
チユンさんのアルバム制作を終えるとまたチニョンさんはアメリカに発った。
僕は不安の中で掴めるものがなくてだからもっとただ歌の練習にすがった。
「2年間ずっと練習だけして、アルバムを出すこともできないのではないか」そんな考えも浮かんで、「ダンス歌手なのに年ばかり食ってしまうんじゃないか・・・」と不安になったりもした。
今年2月頃韓国へ帰ってきたチニョンさんは「今度は本当にアルバムを出そう」と言い、約1ヶ月でレコーディングを全て終わらせた。
すでに曲は全て作ってある状況だったからレコーディング作業はすぐに終えることができたのだ。
ついに4月28日<ナップンナムジャ>(悪い男)の初放送デビュー舞台。
今この舞台で僕が練習してきたダンス、歌全てを見せなければと思ったが、思ったほどは上手くいかなかった。
特別失敗した部分はなかったけど緊張して、思ったように体を動かすことができなかった。
☆ 孤独と戦いながら
母の入院費まで責任を持ったパクチニョン 1人で練習をするのにはうんざりした。それで僕は練習所に通う電車やバスの中で狂ったように練習した。
音楽を大きくして一緒に歌いながら、歌に合わせて振りをつくり、電車やバスの中でためらうことなく踊った。
狂った少年に見えたろう。
チニョン氏がアメリカにプロデューサーになるために旅立ってから、
『ひょっとしてこのまま歌手になれないんじゃないだろうか』と不吉な思いもよぎったが、 孤独と戦いながら、1人で一生懸命に練習した。そしてチニョン氏が昨年3月にアメリカでのプロデューサー活動を終えて帰ってきた。
それで僕のレコーディングをすぐに始めると思ったのに、チニョン氏は『私のCDを先に出す。良い歌ができた』と言った。
そのため僕のCDは 8 月に延びた。僕はチニョン氏の『僕には彼女がいるのに』の振り付けを作った。
全部僕が作ったわけではないが、かなり僕の振り付けが入っている。
そして僕はチニョン氏のバックダンサーとして活動した。
舞台経験を積むには良い機会だったが チニョン氏と毎日一緒に動きながら練習するのがとても大変だった。
チニョン氏がコーディネーターのお姉さんやマネージャーさんと話しをしたり、休んだりする時間にも僕は休む暇もなく 一生懸命練習した。
チニョン氏が合図したら歌を歌わなければならなかったし、1日に同じ歌を 100 回づつ繰り返し歌った。
そんな時、チニョン氏に『また音が外れてる』とゲンコツをされた。
ゲンコツなんて何でもないようでも、同じ場所だとかなり痛い。
パクチニョン氏のバックダンサーをしながら僕のアルバムに入っている『 babybaby 』と言う曲だけでも 100 回は歌ったと思う。
他の人が寝ている車の中でも僕はチニョン氏の指示に合わせて終わりもなく歌を歌った。
母の入院費まで責任を持ったパクチニョン 1人で練習をするのにはうんざりした。それで僕は練習所に通う電車やバスの中で狂ったように練習した。
音楽を大きくして一緒に歌いながら、歌に合わせて振りをつくり、電車やバスの中でためらうことなく踊った。
狂った少年に見えたろう。
チニョン氏がアメリカにプロデューサーになるために旅立ってから、
『ひょっとしてこのまま歌手になれないんじゃないだろうか』と不吉な思いもよぎったが、 孤独と戦いながら、1人で一生懸命に練習した。そしてチニョン氏が昨年3月にアメリカでのプロデューサー活動を終えて帰ってきた。
それで僕のレコーディングをすぐに始めると思ったのに、チニョン氏は『私のCDを先に出す。良い歌ができた』と言った。
そのため僕のCDは 8 月に延びた。僕はチニョン氏の『僕には彼女がいるのに』の振り付けを作った。
全部僕が作ったわけではないが、かなり僕の振り付けが入っている。
そして僕はチニョン氏のバックダンサーとして活動した。
舞台経験を積むには良い機会だったが チニョン氏と毎日一緒に動きながら練習するのがとても大変だった。
チニョン氏がコーディネーターのお姉さんやマネージャーさんと話しをしたり、休んだりする時間にも僕は休む暇もなく 一生懸命練習した。
チニョン氏が合図したら歌を歌わなければならなかったし、1日に同じ歌を 100 回づつ繰り返し歌った。
そんな時、チニョン氏に『また音が外れてる』とゲンコツをされた。
ゲンコツなんて何でもないようでも、同じ場所だとかなり痛い。
パクチニョン氏のバックダンサーをしながら僕のアルバムに入っている『 babybaby 』と言う曲だけでも 100 回は歌ったと思う。
他の人が寝ている車の中でも僕はチニョン氏の指示に合わせて終わりもなく歌を歌った。
☆母の入院費まで責任を持ってくれたチニョンさん
オーディションテープを送った後、チニョンさんから連絡が来た。
「アルバムを出してみよう」と、僕をチニョンさんの弟子に入れてくれた。
僕は本当に嬉しくて、より一層一生懸命ダンスと歌の練習に励んだ。
このように僕が喜びに浸って歌手の夢を育てている間、母の容態はどんどん悪化していた。
ブラジルへふらりと発った父は何ヶ月か後そこにも適応できないまま帰ってきた。
父の代わりに家長の役割をしていた母の健康は急激に悪化していた。
僕は正直、母は僕が小さい頃からずっと体が悪かったので、当時はそんなに深刻な状況だったなんて思ってもみなかった。
父は韓国へ帰ってきてからも地方を転々としていて母の面倒を看る人も居なかった。
僕もやはり「僕一人でもちゃんと生きていかなきゃ」と思い、母の面倒をよく看てあげられなかった。
僕はチニョンさんに母の状況について全部話した。そうしたらチニョンさんは「俺がお母さんを入院させて、入院費用も出すから
心配するな」と、僕を慰めてくれた。
本当にありがたい方だ。
この後母は入院した。しかしすでに遅かった。
母が入院した時にはすでに炎症がひどく、体中が化膿していた。
病院からも、そのまま退院したほうがいいと言われた。
母は再び家に帰って来た。
その当時を思い出すと、僕は本当に恨めしくて仕方がない。
母の容態は日を追うごとに悪くなり、また入院した。
母が入院した時、チニョンさんのお父さんとチニョンさんの奥さんも来てくれて、母のそばに居てくださった。
オーディションテープを送った後、チニョンさんから連絡が来た。
「アルバムを出してみよう」と、僕をチニョンさんの弟子に入れてくれた。
僕は本当に嬉しくて、より一層一生懸命ダンスと歌の練習に励んだ。
このように僕が喜びに浸って歌手の夢を育てている間、母の容態はどんどん悪化していた。
ブラジルへふらりと発った父は何ヶ月か後そこにも適応できないまま帰ってきた。
父の代わりに家長の役割をしていた母の健康は急激に悪化していた。
僕は正直、母は僕が小さい頃からずっと体が悪かったので、当時はそんなに深刻な状況だったなんて思ってもみなかった。
父は韓国へ帰ってきてからも地方を転々としていて母の面倒を看る人も居なかった。
僕もやはり「僕一人でもちゃんと生きていかなきゃ」と思い、母の面倒をよく看てあげられなかった。
僕はチニョンさんに母の状況について全部話した。そうしたらチニョンさんは「俺がお母さんを入院させて、入院費用も出すから
心配するな」と、僕を慰めてくれた。
本当にありがたい方だ。
この後母は入院した。しかしすでに遅かった。
母が入院した時にはすでに炎症がひどく、体中が化膿していた。
病院からも、そのまま退院したほうがいいと言われた。
母は再び家に帰って来た。
その当時を思い出すと、僕は本当に恨めしくて仕方がない。
母の容態は日を追うごとに悪くなり、また入院した。
母が入院した時、チニョンさんのお父さんとチニョンさんの奥さんも来てくれて、母のそばに居てくださった。
